京都を拠点に活動する美術作家・批評家の池田剛介さんによる、20世紀の絵画の「描線(ドローイング)」をテーマにした連載です。作品に描かれた「動き」や「身振り」としての線に注目することで、「これまで見えていなかった作品の姿」を明らかにします。第九回は、大阪中之島美術館での展覧会「没後30年 木下佳通代」で話題となった木下佳通代についての後篇です(前編はこちら)。本展は10月から埼玉県立近代美術館にも巡回予定ですので、予習としてもお楽しみ下さい。
絵画への転回
ここまで作品に見られる二元性を手がかりに、木下の代表作である写真を用いた表現へと至る過程を見てきた。ここから約3年後の仕事を見てみよう(図1)。
画面全体に暗い色の置かれた、強い筆触を感じさせる絵画。ここには数年前まで展開していた、イメージと図形による重ね合わせとは一見してかけ離れた画面が現れている。写真によるコンセプチュアルな作品から抽象絵画へ。いささか唐突なようにも思える木下の転回には、どのような足跡を見出すことができるのだろうか。
こうした変化を、外的な要因の反映として考えることは比較的容易である。美術において70年代は国内外を問わず、装飾的な要素を削ぎ落としたミニマリズムやコンセプチュアル・アートといった動向が台頭した時代であり、その後の80年代にはニューペインティングないし新表現主義と呼ばれる大画面の絵画をはじめとして、それまでの抑制的な表現から解き放たれるような動向が注目されるようになった[1]。
木下による写真から絵画への変化は、こうした時代の趨勢と連動しているように見えなくもない。確かに一面では、そのような外側からの影響を否定することはできないだろう。だがそれは同時に、より内在的な変化でもあるはずだ。絵画への注力について、癌で逝去する5ヶ月ほど前に自身の活動を総括するかのように行われたインタビューで、木下は次のように語っている。
表現に対するコンセプトとか、作品そのもののコンセプトを変えるのではなく、表現に対する自分の方法をやっと変えることができた。自分の存在論、概念的なものを全て表現にもってくるのではなく、存在そのものを自分が画面の上に作ればいいんだと。自分が表現したものを存在させればいいんだと。ある意味では、図式的なコンセプトを取り去ることが出来たんです。[2]
存在をめぐる「図式的なコンセプト」から「存在そのもの」へ。こうした作家自身による言葉は木下の絵画への転回を検討する際の重要なヒントであり、この言明は木下の絵画を語る上で、しばしば拠り所とされている。
だが一方でその明快さは、木下の作品における具体的な探求の、一本道とは言えない手探りを、事後的な視点から——それは自身の死を見据えた作家による俯瞰的な視点である——あまりにも平坦に塗りつぶしてしまっている危険性はないだろうか。そもそも「存在そのもの」とはどういうことなのかは実のところ判然としない。作家本人によって語られたものだとはいえ、私たちはこのような「説明」を、果たしてどの程度まで真に受けるべきなのだろうか。
飽和する線
写真から絵画への転回を探る上で、再び具体的な作品に立ち返ってみよう。写真を用いた表現が、ある飽和点に達したのちに新たな表現へと足を踏み出していく。その時に木下が足掛かりとするのは写真の中で用いられていた直線、すなわち紙の「折り目」である。
作品を見てみよう(図2)。紙の中央部には縦方向に平行する折り目が12本走り、その折り目の合間からは帯のような垂直線が4本現れている。頭の中でこの制作プロセスを辿ってみるとき次のような道筋が浮かび上がるだろう。
横長の紙の中央部に12本の平行する縦方向の折り目を作る。折り畳んだ状態のままパステルで面を形成するような斜めの平行線を引く。折り込まれた紙を再び広げると、中央には折り目によって切り離されたパステルの面が、線でありかつ面でもあるような4本の帯となって現れる。
折り目は紙という平面を、平面のままで立体に立ち上げ、折り目を広げることで、また平面へと戻す、そうした両義性を可能にする線である。ここで折り目としての線は、写真を用いた作品においてイメージと幾何形態の重ね合わせとして扱われていた作品の二元性を、一つの紙のうちに畳み込むための蝶番となっている。
頭の中で想像するだけでなく作品の模型を作ってみることで、さらに気づかされることがある(図3)。中央に作られた円形の面に縦のストライプが走る、制作途中で木下が見たはずの折り畳まれた状態は、その最終的な現れや手法は全く異なるにもかかわらず、前回見た「滲触」シリーズの絵画(図4)と似通っている。さらに、この折り目を開くと中央の円はその求心性を失いながら画面の両端へと拡散していく。かつての絵画に見られた求心性と遠心性の操作が、再び顔を覗かせている[3]。
こうした求心性と遠心性をめぐる実験は、写真に幾何形態を重ね合わせる作品群においては、ほぼ後景に退いていた問題と言ってよく[4]、この意味でも、写真を用いた作品の問題圏から外へと足を踏み出しながら、それ以前に取り組んでいた関心に新たな仕方で立ち戻ろうとする、その予兆を垣間見ることができるだろう。
実際のところ絵画への変貌は、ここから急速に進展していくことになる。同時期に制作された紙の上にパステルを用いた作品群では、物理的な折り目に代わって垂直方向に走る線が現れており、線から「浸食」するかのような色面が見られる(図5)。
油彩画へと至る端境期に集中的に取り組まれた、このパステルで描かれた作品群において、多くの場合そこに現れる線が垂直的な縦縞であることは示唆的である。前回触れた『「いき」の構造』において、九鬼周造は平行する二元を表す幾何学的な要素として、平行線、すなわち縞模様が特権的であることを述べているが、その中でも横縞ではなく縦縞にこそ「いき」の現れを見ている。その理由は次のようなものだ。
両眼の位置は左右に、水平に並んでいるから、やはり左右に、水平に平行関係の基礎の存するもの、すなわち左右に並んで垂直に走る縦縞の方が容易に平行線として知覚される。(…)換言すれば、両眼の位置に基づいて、水平は一般に事物の離合関係を明瞭に表わすものである。したがって、縦縞にあっては二線の乖離的対立が明晰に意識され、横縞にあっては一線の継起的連続が判明に意識されるのである。[5]
目が左右に並んでいる私たちにとって、縦縞の方が平行性を把握しやすく、二元の乖離的な性格が強調されることになる、と。この他にも、九鬼は横縞の地層のような重さに対して縦縞には小雨や柳の枝のような軽みがあることを指摘するなど、縦縞による「軽巧精粋」を強調しながら、その乖離的な二元性を指摘している。この意味で縦のストライプが多く現れるこの時期の作品は、写真によるイメージを用いていないものの、二元的な構造を持つかつての作品と、その片足では同じ場を共有してもいるだろう。
だが同時に、ここでの垂直線は斜めに傾きながら線と線の間には面が滲み出している。木下の手探りは、一方では平行線による二元性に足場を持つと同時に、もう片面では平行線から飽和するかのように二元性の外へと溢れ出してもいる。
近年新たに発見されたタイトル不詳の作品は、こうした紙の上のパステルでの実験を、キャンバスと油絵具で置き換えており、そこでは線と線の間から面が滲み出しながら、もはや線のほとんどを覆い尽くすまでに至っている(図6)。こうして木下は、写真を用いた作品から絵画へと向かう端境期に、紙とパステルを用いて二元性の新たな探究を行うその先で、まさにその二元性から飽和しながら溢れ出るかのように、冒頭で見たような油彩画へと逢着することとなるのである。
二元と統合
ここで見てきた限りでも、木下の写真から絵画への変容は、あらかじめ目的地の定められた道では決してなく、自身の過去の絵画の記憶をも巻き込んだ、入り組んだ時空の中で行われていたことが分かるだろう。この意味で私たちは、先の木下自身による「存在についての図式から存在そのものへ」という簡略化された説明を、その半面においてのみ受け取っておく必要があるのではないだろうか。
これまで見てきたような作品の構造的な性質を念頭におけば、木下による「図式」という言葉は、写真を用いた作品におけるイメージと幾何形態による二元性におおよそ対応すると言える。では「存在そのもの」の方は、どうだろうか。木下自身の制作を鑑みるならこの言葉は、イメージと幾何形態による分割可能(dividual)な二元性を超えて、分割不可能な個体(in-dividual)として統合されたものを指すと考えることができるだろう[6]。
二元的な平行性から、分割不可能な一体性へ。作品構造の観点から絵画への転回をこのように捉えなおしてみるとき、この見方は平行線から滲み出した色面が画面全体を覆うかのような絵画の印象とも通じていなくはないように思われる。だがそのような概念的な理解は、果たして十分に作品のありように即しているだろうか。
ここで再び、いや何度でも具体的な作品に立ち戻ってみる必要がある。冒頭で見た絵画に、あらためて注意を向けよう(図1)。それまで木下を特徴づけていた幾何形態や平行線は、もはやそこに見てとることはできない。線が飽和しながら、画面全体に塗り込められるかのような色面。その中央部の絵具の濃度は周縁部に比べて薄くなっている。キャンバスの上に絵具を置いたのちに拭い取っており、この手の痕跡は線から溢れ出しながら現れる面に対して、斜め方向に走る空間を作り出している。
こうして作品の中央に穿たれた空洞のような、絵具が拭き取られることによる空間は、これまでに見たイメージと幾何形態との重ね合わせによる二重化を感じさせないこともない。だがやはりそれとは似て非なるものだろう。筆で描かれた色面と、その上から拭われた空間はシームレスに繋がっており、これまでに見られたような二元性とは異なる、より分割不可能な個体性の方に足を踏み入れているのは確かなように思われる。
と同時に、ここで気付かされるのは、線から飽和した面が溢れきることなくキャンバス地の白が四辺の際の部分に残されている点である(図7, 8)。この四辺の空白——というよりも空隙は、この時期の「拭う絵画」に共通して現れている。絵具が塗られることなく残された空隙は、見る者に対して、絵画が二次元の平面であることを周縁部から伝えており、拭うことによって現れる絵画的な奥行きへと深沈することに対する、周辺からのノイズのようなものだ。
ここでも思い起こされるのは、木下が写真による表現を行うよりも以前に手がけていた、滲むような色彩と格子状の線による一連の「滲触」である。キャンバスの奥へと滲んでいくような青は、幾何学的なグリッドによる平面性へと絶えず差し戻されていた。だがここではもはや、そうした二元的に分離した「図式」は成立していない。むしろ色面と一対を為す平面性は画面の四辺へと押しやられながら、しかしそこには、飽和する色面によって覆い尽くされることのないキャンバスの平面が残存している。
四辺の空隙が残されることで、色面は画面全体に、さらにはその外にまで広がるというよりも、キャンバスの四隅によって限定されている印象を与えるだろう。より踏み込んで言えば、線が飽和しながら広がっていく面は、拡張していく遠心性と、画面の内部に留まろうとする求心性の双方を一つの画面に合わせ持つことになる。こうして絵画は、求心性と遠心性の二つの相反する運動の狭間で痙攣するかのように張りつめている。
その意味で、新たに取り組まれた絵画にもまた、二元的な要素は未だ残されている。だがそれは、より潜在的な仕方へと変化し、絵画の中に一体的に統合されている——というよりも統合される瀬戸際にある。そして裏を返せば、そこには二元的なものとの緊張関係が、かろうじて残存しているのである。
とりわけ80年代以降の木下の絵画に掴みづらさが感じられるとすれば、この辺りにその理由を求めることができるだろう。抑制的な幾何形態による二元性から飽和するかのように画面全体を覆う統合性へと向かっていきながら、なおそこには、かつての二元性の気配のようなものが響いている。二元的な分割を維持するのでもなければ、筆触や色彩を溢れさせながら完全に一体化するでもない、その両極のいずれにも足場を定めることなく、両者の犇き合う均衡状態に身を置くこと。こうして二極を左右に分かつ平均台に足を置くような狭路にこそ、木下は自身の道を見出すのである。
震動するストローク
晩年の巨大な絵画の前に立つ。かつては「拭う」行為として現れていた、線でありかつ面であるような帯状のストローク(筆触)が、画面全体にちりばめられている(図9)。絵画への転回から約10年を経て、木下は55歳でその生涯を閉じるまでの間に約800点もの作品を描いた。
先に触れたように、美術の世界では80年代以降、新表現主義と呼ばれる動向が強まっていった。そこには70年代に見られた抑制的な表現に対する反動という側面があり、巨大な画面に激しい筆触、そして強い物語性や具象的なイメージによって特徴づけられるものだ。
ジャン゠ミッシェル・バスキアに代表されるこの動向の中に木下の作品を置くことを想像してみれば明らかだが、そこに見られるストロークは、この時代の絵画を徴づける、いわゆる男性的な荒々しさを持つものでは決してないことがわかるだろう。コンセプチュアルな時代の抑制からその身を解放しながら、なお表現主義的な放縦とも距離をとること。ここにこそ木下の歩む困難な道があると同時に、晩年の絵画の質が浮き彫りとなる。
木下は自身のストロークについて次のように語る。「筆を使って描いているうちに手慣れて、筆勢とか精神的なものまでも表現できると思うんです。そういうものは危険なので、できるだけ初めて筆を持つ、ぎこちなさを大事にしたい。一筆で、心地よく精神的に修練された線を引くことは、決してしなかったです」[7]。
「一筆で、心地よく精神的に修練された線を引く」のではない、いわば筆勢を感じさせないストロークという、独特のパラドキシカルな質に注力していたことは、同時期にロサンゼルスで制作された、アクリル絵具を用いて比較的短い時間で描かれたという作品と比べてみることでも明らかになる。ロザンセルスでの絵画は、筆触の運動性や絵具の垂れを残すことで、キャンバスの前で制作する身体の運動性を、そして速さを直接的に感じさせるものだ。(図10,11)
その一方で、日本で制作された油彩画では、筆勢を持って描きつけられた荒々しい筆跡の際を丁寧にやすりがけするかのように、そのストロークの外縁は白の領域へとシームレスに繋がっている。と同時に白の側もまた青の領域へと浸食しながら、双方向の力がせめぎ合っている(図12)。この青と白の領域の相互浸透から、ここでもまた「滲触」の絵画を想起するのは難しいことではないだろう。だがかつて画面中央に浮かんでいた大きな色面は、より断片化された大小の島々となって画面全体へとちりばめられている。
木下の筆触は、離散的に広がった島々と、それを受け止める白の領域の双方に足を置きながら、その重心をどちらにも傾けることなく、双方が画面の中でせめぎ合う均衡の只中にある。それは手慣れた筆勢とはほど遠く、その画面には、木下の語る「ぎこちなさ」と背中合わせの、薄氷を履むかのような緊張が漲っている。ストロークは画家の手による一回的な動きの痕跡であると同時に、強い筆勢によって荒々しく残されたケバ立ちが磨き込まれることによる、運動と静止の狭間で震動している。
絵画への転回について、木下は画面の上に「存在そのもの」を表すこととして語っていた。このことを最後に今一度思い出そう。二元的な分割に対する統合性の方に引き寄せながら検討したこの言葉を、あえてそのまま受け止めるとすれば、木下の絵画によって表現される「存在」とは、確固たる土台の上で描かれる力強いそれではなく、複数の力が犇き合う不安定な場にその足場を持つ、揺れとしての存在に他ならない。
木下はその制作を通じて、一つのスタイルに固着することなく、絶えず自分自身の手法から遊離するかのように新たな領域へと足を踏み出していった。自身が突き詰めた二元性から飽和しながら現れる、揺れの只中にある存在——それは決して安定的な場所にとどまることなく、複数の力の拮抗する場にこそ自らの足場を見出していく木下の制作、そして生きることの様態に、切れ切れの輪郭を与えているのである。
【注】
[1] 70年代に関しては例えば『ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術』展(DIC川村記念美術館他、2021–22年)、80年代に関しては『ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代』展(国立国際美術館、2018–19年)の図録を眺めてもらえれば、その時代の空気が感じられるだろう。
[2] 『没後30年 木下佳通代』赤々舎、2024年、212頁。
[3] 模型を作ることでもう一つの別の点として、ここに新たに現れている帯は、必ずしも折り目という実体的な線によってのみ現れているのではなく、折り目が重なることによる非実態的な線によっても輪郭づけられていることに気づく。より正確に言えば、実体的な折り目と非実体的な折り目の両者に挟まれることによって、この帯は現れており、実体的であると同時に非実体的でもあるような、半実体的な帯がそこに浮かび上がっている。
[4] コンセプチュアルな時期の作品は、画面の中央にイメージや幾何形態が置かれることが多く、画面構成としては求心的な構図が用いられている。
[5] 九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫、1979年、72頁。
[6] この分割可能(dividual)と分割不可能(individual)の区分は、木下自身が影響を受けたと語るパウル・クレーによる議論を念頭に置いて用いている。次を参照。パウル・クレー『造形思考 上』土方定一ほか訳、ちくま学芸文庫、2016年、361–460頁。
[7] 『没後30年 木下佳通代』前掲書、214頁。
【図版出典】
01, 02, 04, 05, 06, 09, 10:『没後30年 木下佳通代』赤々舎、2024