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2023.08.04

序 流れフローから描くことドローイング

絵画を辿る 20世紀芸術の描線分析 / 池田剛介

京都を拠点に活動する、美術作家・批評家の池田剛介さんによる連載がスタート! 20世紀の絵画の「描線(ドローイング)」をテーマに毎回1人の作家をとりあげ、彼/彼女らの作品に描かれた「動き」や「身振り」としての線に注目することで、「これまで見えていなかった作品の姿」を明らかにする──絵画の見方が深まる新しい美術批評です。

 

「近頃の絵は解らない、という言葉を、実によく聞く」──文芸批評家の小林秀雄は『近代絵画』を、このように書き出した。かつて画家は、現実の対象を現実らしく再現することに苦心していたが、近頃の絵はどうもそうではない。ジャガイモかと思ってタイトルを見ると「男の顔」と書いてある、というわけである[1]

そこから半世紀以上を経て、芸術を見るときの反応は変化しているだろうか。変化したともいえる。近年「アート」という言葉で広がっているそれは、私たちの生活に束の間の祝祭感を提供しながらSNSで注目アテンションを惹くアイテムとして、社会のなかに浸透しつつある。美術館やギャラリーでの展覧会のみならず、都市や地方を問わず各地で開催される大小数々の芸術祭もまた、そうしたアートへの身近さをもたらす上での後押しとなっている。

美術批評家のボリス・グロイスは、現代の美術館が、かつてのそれのように作品を収集しながら展示する場ではなく、常に流動的なイベントを組織する場となることを指摘している[2]。そこではかつてのような「作品鑑賞」は無効化される。会場で私たちを迎えるのは、額縁や台座によって区切られた「作品」ではなく、一時的に仮設された写真映えのするインスタレーションである。そこを訪れる私たちは、こうした演出的空間の内部へと入りこみ、その一時的なイベントを活発化させる存在となる。SNSを見て我先にと展示の現場へ出向き、忙しなく写真を撮ってはSNSにアップする。こうして私たちは決して流れフローに乗り遅れることなく、アート・イベントの一部になることへと駆り立てられている。

近年のアートが私たちをたえざる流れのなかへと巻き込んでいく一方で、小林が「近頃の絵」と呼んだもの、すなわちセザンヌやピカソといった近代絵画に関してはどうだろうか。小林の時代に比べれば、今では多くの作品が海外から運び込まれて展示されており、またそれに伴って精細な図版が掲載された解説書や雑誌なども多く刊行されている。作品を見るための環境は、はるかに整備されているといえるだろう。

「何故わからぬ展覧会が満員になるのか。わからぬ絵に惹かれたからではないか」[3]。近頃の絵は分からないと言いながら、実のところ私たちは絵画の分からなさ、その「形象の不安と謎」にこそ惹かれて展覧会に出かけるのではないか──こうした小林による逆説的な問題提起は、今なお成立するだろうか。現代のアートがたえざるイベントの波へと変貌を遂げるなかで、小林が指摘したような「形象の不安と謎」は、すっかり蒸発したかのようにも思える。

だがその一方で、実のところ私たちの多くは、どのように芸術を見たらいいのか分からない、という感覚を密かにもちつづけているのではないだろうか。私たちは映画を見、マンガを読む。あるいはゲームをする。特にその見かたや読みかた、遊びかたを教えられたわけではないのにもかかわらず。だが殊に芸術作品となると、どこか身構えてしまう。それを見るための知識や情報が足りていないのではないか、という不安に駆られる。そうしてはるばる美術館に出向きながら、作品を見ることもそこそこに、近くの解説文を読み始めてしまうのである。

こうした不安を反映してのことでもあるだろう、今や芸術に関する「情報」は巷に溢れている。作品の様式や作り手の人生、生み出された社会的背景など、作品を取り巻く情報や解説がたえまなく流れていく。展覧会が開催されればSNSでは気の利いたコメントが溢れ、ウェブメディアではレポートが公開され、雑誌の特集が組まれ、専門家によるレビューが書かれることもある。ウェブで検索をすれば、読み切れないほどの情報が列挙され、そのなかから手頃なものを選んでつまみ食いすることが可能である。

これらの情報は、作品のもつ「分からなさ」をそれなりに解消してくれる、あるいはそういう気にさせてくれるものではある。だがその一方で、作品それ自体を具体的に見ることは、ほとんどなされていないのではないだろうか。むしろ作品を取り巻く情報の只中にあって、その中心にあるはずの作品それ自体の「分からなさ」は、手つかずのままにされているとはいえないだろうか。

 

作品という迷宮を辿る

この連載で取り組みたいのは、現代のアートの流れフローから一歩離れて、あらためて個別の絵画と向き合い、その「分からなさ」へと潜り込むことである。だがそれは、いたずらに作品を難解なものと捉えて神秘化することではない。むしろ絵画それ自体の分からなさ=謎を、可能なかぎり具体的に「辿る」ことに取り組んでいく。

絵画を辿る、とはどういうことか。辿る(trace)という言葉は、何かに沿って指を動かしたり、道を進んだりするという能動的な意味合いをもつと同時に、「議論が平行線を辿る」「崩壊の一途を辿る」というように、何かによって否応なく導かれてしまうという受動的なニュアンスをもつ。この言葉の響きは、私が作品を見る時の感覚と近いものだ。

作品をめぐる周辺情報の収集に邁進してしまうとき、作品というものを一見したところ不可解でありながら、その実あらかじめ出口の決まっている「迷路」のように捉えてしまっているのではないだろうか。迷路では分岐する複数の選択肢があるように見えながら、出口に通じる正解は一つであり、そのほかの道はデッドエンドである。

都市という迷路状の空間において、スマートフォンのアプリケーションは目的地までの最短距離を示す。こうして効率的に目的地へと辿りつこうとする「迷路」的な発想に、私たちはしばしば囚われてしまう。だが作品それ自体に目を凝らし、表面を辿る上で重要なのは、そこにあらかじめ決まった目的地がないことを受け入れる構えである。例えばピカソ=キュビスムといったように、画家と作品様式を最短距離で結んでみたところで、作品を見たことにはならない。

人類学者ティム・インゴルドは、こうした迷路メイズと似て非なるものとして迷宮ラビリンスという言葉を用いている。インゴルドによれば、子どもにとっての通学路は迷ではなく迷である。通学路は、いくつかの道を選択しながら最短距離で家へと帰るための道ではない。そこは彼らの気を惹く様々な事物に満ちた、目的地への経路の定まらない曲がりくねった線となる。

「子どもの注意は、光と影のきらめきから、鳥の群れや犬の鳴き声、花の匂い、水たまり、落ち葉に、そして無数の取るに足りないものへと向かい、カタツムリからトチの実へ、そして落ちた硬貨からそこらに散らかったゴミへと、ありとあらゆるものに惹かれる、、、、[4]。こうして子どもたちにとって通学路は、しばしば家という目的地も忘れて、そこに現れる予想外の魅惑によって多方向に導かれることによる迷宮ラビリンスとなる。

芸術作品を見ることは、出口を目指して複雑な「迷路」を進むことではなく、作品に刻み込まれた魅惑によって感覚が導かれることによる「迷宮」の経験である──さしあたってそのように考えてみよう。だとすれば、SNSやメディアによって与えられる情報を通じて、満足のいく目的地に辿り着くことができなかったとしても故なきことではない。というのも、そもそも「目的地」など無かったのだから。むしろ作品の表面で、そこに刻まれた様々な形象に目を凝らしながら辿ることこそが「迷宮」としての作品を経験することである。こうして作品の表面を辿ることは、私たちに染み付いた「迷路」的な思考を、謎=魅惑に満ちた「迷宮」的な世界へと誘っていくだろう。

 

描くことドローイングとしての作品

では作品という迷宮を、いかに具体的に辿ることができるのだろうか。その手がかりとして、ここでは作品に内在する描線=ドローイングに注目する。その含意は追々明らかにしていければと思うが、さしあたって述べておきたい理由は、芸術作品を完成形として捉えるのではなく、生成の過程にあるものとして捉えるためだ。

私たちはしばしば鉛筆やペンによるドローイングを「習作」と呼び、絵具で塗られた絵画や、何らかの素材で具現化された彫刻と区別しながら、それらを完成へといたるための予備的作業と位置づけ、完成作品こそを重んじることに慣れている。だが芸術作品において完成作それ自体が、一つの「途上」だと考えることはできないだろうか。

制作の現場ではよく知られていることだが、作品の制作とは、あらかじめ頭のなかに準備したプランを実現するといったものでは必ずしもなく、しばしば作り手にも見えていなかった何かが、制作するプロセスのなかで現れてくるのは珍しいことではない。画面に線を引き、そこで生まれてきた状況に応答しながら、さらに新たな線を重ねていく。そこからいくつかの線を消し、また別の線を重ねていく。

制作を、こうした生成のプロセスとして捉えるとき、目の前にある「完成作」と、途上であることとの境界は曖昧なものとなるだろう。絵画(painting)を、塗られた(paint)ものとしてではなく、描かれる(draw)という側面から捉えること。この視点において芸術作品は、絶対的に固定された完成形というよりも、広い意味でのドローイング(drawing)=描くこととして捉えることができるようになる。

また個別の作品が、それ自体で生成的な側面をもつと同時に、制作者の視点に立つならば作品は、しばしば次の作品へと向かうための途上でもある。多くの作り手にとって、制作とは一つの作品を作って終わり、というものではない。そこで仮に完成した(ということにした)作品は、また次の作品へと向かうための手がかりとなる。この意味で、ある作品は、たとえそれが完成作であったとしても、作り手にとって次の制作へと向かうための「試作」という側面をもつ。生成的な視点で作品を捉えるとき、制作の必ずしも直線的ではない展開における作品相互の関係も新たに見えてくることになるだろう。

アンリ・マティスは線と線の重なりによって描かれるデッサンを「身振り」と重ねている。メロンの大きさについて話すとき、2本の手がその大きさを雄弁に表すのと同様に、デッサンの線はそこにないものを表現しなければならない、と[5]。裏を返せばデッサンの線を引くことは、メロンの大きさを表す手の動きと通じているということである。作品をこうした具体的な身体の動きの延長上にあるものとして捉えるとき、作品の「分からなさ」を効率的に解消するための情報では決して届くことのなかった、作品それ自体に内在する運動が見えてくるだろう。「分からなさ」を解消するのではなく、謎=魅惑によって導かれる道行きのなかでこそ、これまで見えていなかった作品の姿が現れてくるはずである。

作品を生成過程として捉えることで現れてくるもの、それは完結して固定化されたそれではなく、運動としての作品のありようであり、作ることの息づかいである。私たちを巻き込む情報のたえざる流れフローから、作り手の身振りが刻まれた描くことドローイングへ──その表面に現れている謎めいた魅惑に導かれながら、絵画を辿る道を歩いていこう。

 

【注】
[1] 小林秀雄『近代絵画』新潮文庫、2020年、7頁。
[2]ボリス・グロイス『流れの中で──インターネット時代のアート』河村彩訳、人文書院、2021年、25–31頁。
[3] 小林、前掲書、291頁。
[4] ティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ──線の生態人類学』筧菜奈子、島村幸忠、宇佐美辰朗訳、フィルムアート社、252頁。強調は原文。
[5] アンリ・マティス『マティス 画家のノート』二見史郎訳、みすず書房、1978年、72頁。